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第5回 CSAジャパン関西支部開発者向け海外最新動向紹介

EU AI法 第50条「透明性義務」の施行と運用

2026年7月29日、CSAクラウドセキュリティアライアンス(CSA)は、「EU AI法 第50条「透明性義務」の施行と運用」と題するレポートを公開した(関連情報:EU AI Act Article 50: Transparency Obligations Take Effect(https://cloudsecurityalliance.org/artifacts/eu-ai-act-article-50-transparency-obligations-take-effect-2))。

[要約] EU AI法第50条の透明性義務は、他規定の延期(デジタルオムニバス)に関わらず2026年8月2日に予定通り適用された。本条項は対話型AIや合成コンテンツ等の提供者・運用者に開示や電子透かしを義務付けるが、現行技術には透かしの消去や回避といった脆弱性が存在する。そのため企業は、単発のラベル対応にとどまらず、自社AIの棚卸し、技術選定のドキュメント化、標準アイコンの採用、およびCSA AICM等を活用した動的かつ継続的なガバナンス体制の構築を行う必要がある。

・[要点1] 2026年8月2日より適用開始となったEU AI法第50条の透明性義務
・[要点2] 企業は一回限りの対応ではなく継続的な技術評価と文書化が必要
・[要点3] CSA AICMなどを活用した動的なガバナンス体制の構築・運用

CSAの「EU AI法 第50条「透明性義務」の施行と運用」は、以下のような構成になっている。

・主要なキーメッセージ
・背景
-第50条の要求事項
-なぜデジタルオムニバスでこの期限が変更されなかったのか
・セキュリティ分析
-コンプライアンスと技術水準のギャップ
-未解決の検出問題の上に重ねられた規制義務
・推奨事項・対策
-即時対応策
-短期的な緩和策
-戦略的検討事項
・CSAリソースとの整合性
・参考文献

EU AI法第50条が要求する4つの透明性義務

EU AI法第50条は、AIシステムのカテゴリーおよび関係者の役割(プロバイダー(提供者)かデプロイヤー(運用者)か)に応じて、主に4つの独立した透明性義務を規定している。

1.対話型AIシステムのプロバイダー(提供者)に対する義務
・対象:自然人と直接対話することを目的としたAIシステム(チャットボット、音声アシスタント、対話型エージェントなど)。
・要求事項:合理的に十分な情報を持つユーザーに対し、相手がAIシステムとやり取りしていることを理解できるように提示・開示しなければならない。
・例外:ユーザーが置かれた状況や利用の文脈から、AIと対話していることが客観的に明白である場合、および犯罪の検知・予防・捜査のために法律で認可された警察・捜査機関による特定用途。

2.合成コンテンツ(画像・音声・動画・テキスト)生成AIのプロバイダー(提供者)に対する義務
・対象:合成された音声、画像、動画、またはテキストコンテンツを生成するAIシステム。
・要求事項:システムの出力結果(生成物)を、人工的に生成または操作されたものであると検出可能な「機械読取可能なフォーマット(電子透かしやメタデータ)」で標識・マーキングしなければならない。
・技術的要件と柔軟性:条文上、技術的に実現可能な限りにおいて、効果的、相互運用可能、堅牢かつ信頼性の高い技術手段を用いることが求められている。技術自体がまだ発展途上であることを考慮した柔軟性が一定組み込まれている。

3.感情認識・生体情報分類システムのデプロイヤー(運用者)に対する義務
・対象:感情認識システムまたは生体認証分類システムを導入・運用する者。
・要求事項:当該システムの作動に晒される(対象となる)自然人に対し、システムの存在および作動について事前に通知し、適用されるデータ保護法(GDPR等)を遵守しなければならない。

4.ディープフェイクまたは公共の関心事項に関するAIテキストのデプロイヤー(運用者)に対する義務
・対象:実在の人物・イベントに類似したディープフェイク・メディア、または公共の関心事に関して公開・発信されるAI生成テキストを運用・公表する者。
・要求事項:当該コンテンツが人工的に生成・改変されたものであることを明確に提示・開示しなければならない。
・例外:明らかに芸術的・創造的・風刺的・虚構(フィクション)的な作品であって適切に開示されている場合、または責任ある自然人・法人の手による適切な人間の編集プロセス(人によるレビュー)を経たテキストコンテンツ。

なお、全てのカテゴリーにおいて、開示情報は「明確かつ判別可能な方法で、遅くとも最初のやり取りの時点まで」に提示されなければならず、障害者に対するアクセシビリティ要件に準拠している必要がある。

なぜデジタルオムニバスで適用開始期限が変更されなかったのか

2026年5月7日に暫定合意に達し、6月29日に欧州理事会で承認された「デジタルオムニバス」法案では、附属書IIIに該当するスタンドアロン型ハイリスクAIの適用開始期限を2026年8月2日から2027年12月2日へと延期し、附属書Iに該当する製品組み込み型ハイリスクAIに対しては2028年8月までの適用開始とした(関連情報:AI Omnibus enters into force(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/news/ai-omnibus-enters-force))。これは標準化団体(CEN-CENELEC)による標準規格の策定遅延に対応するための措置だった。

しかし、第50条の透明性義務はこの延期措置に統合・同梱されなかった。透明性義務は、リスク分類に基づく枠組み(Annex I/III)とは完全に独立して機能する義務であり、AIの機能的性質(対話、生成、感情認識、ディープフェイク)に基づいて発生するためである。多くの企業が「EU AI法の適用が一律に延期された」と誤認して対応を後回しにするリスクが生じているが、実際にはチャットボットやAI執筆支援ツールなど、エンタープライズで最も多用される機能に対する透明性要件が2026年8月2日に予定通り到来したことになる(関連情報:Commission starts enforcing AI Act rules and new transparency requirements on 2 August(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/news/commission-starts-enforcing-ai-act-rules-and-new-transparency-requirements-2-august))。

コンプライアンスと技術水準のギャップの存在

本レポートのEU AI法第50条に係るセキュリティ分析では、最初にコンプライアンスと技術水準のギャップがもたらす課題を取り上げている。

EU AI法第50条は、プロバイダーに対しAI生成コンテンツを機械読取可能な手段で「検出可能」にすることを求めているが、現在のウォーターマーキング(電子透かし)の技術水準は、以下の通り法規定の要求に追いついていないのが現状である。

・テキストにおける攻撃・回避の容易性
-ETH ZurichのSRI Lab(ICML 2024にて発表)の研究では、電子透かしされた言語モデルの公開APIに対してクエリを送信する攻撃者が、透かしスキームをリバースエンジニアリングできることが証明された。これにより、AI生成テキストからウォーターマークを消去したり、人間が書いた文章に偽のウォーターマークを付与したりすることが、50米ドル未満の低いクエリコストで80%以上の成功率で達成可能であると示された(関連情報:Watermark Stealing in Large Language Models(https://files.sri.inf.ethz.ch/website/papers/jovanovic2024watermarkstealing.pdf))。
-ICML 2025で発表された「Self-Information Rewrite Attack」研究では、テキストの質を保つために高エントロピーなトークンにシグナルを埋め込むウォーターマーク手法に対し、それらのトークンを選択的に特定して書き換えることで、意味を保ったままウォーターマークを完全に除去できることが実証された(関連情報:Revealing Weaknesses in Text Watermarking Through Self-Information Rewrite Attacks(https://icml.cc/virtual/2025/poster/44537))。

・画像における脆弱性
-画像領域においても、Googleの「SynthID」電子透かしシステムをリバースエンジニアリングした公開ツールが登場している。この最新バージョンでは、最新のGeminiモデルによって生成された画像からSynthID検出器を回避する加工が施され、人間の目には元の画像と全く区別がつかない出力が作成可能であることが確認されている(関連情報:Reverse Engineered SynthID’s Text Watermarking in Gemini(https://www.reddit.com/r/coolgithubprojects/comments/1qvopfw/reverse_engineered_synthids_text_watermarking_in/))。

・規制遵守上の意味
-第50条が「技術的に実現可能な限りにおいて(as far as this is technically feasible)」という定型句を含んでいることは、ウォーターマーキング技術が未解決の問題であることを法自体が暗黙的に認めていることを示している。
-従って、規制当局は「固定された完璧な標準」ではなく、「変化する技術的ベースライン」に基づいてコンプライアンスを評価することになる。善意で導入した電子透かし技術が数ヶ月後に無効化されるリスクがある中で、どのようなドキュメント化とモニタリングの実務を行えば「法的防衛が可能な姿勢(Defensible Compliance Posture)」を構築できるかが重要な焦点となる。

未解決の検出問題の上に重ねられた規制義務

欧州委員会は、AI法第50条(4)が求める人間が視認可能な開示表示のために、3種類のデザイン(完全AI生成、部分改変、一般的AI関与)からなる「ボランタリー・アイコンセット」を公開した(関連情報:EU Icons for labelling AI-generated content(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/policies/eu-icons-labelling-ai-generated-content))。しかし、これは人間が読む表示レイヤーを解決するのみであり、メタデータの削除、再エンコード、スクリーンショット、あるいは来歴データを保持しないプラットフォーム間での共有によってデータが損なわれた場合の機械読取可能性という根本的な問題を解決するものではない。

さらに、EU域外で開発・生成されたコンテンツが即座にEUユーザーに届く環境下において、域外の事業者に対して第50条を強制する直接的な手立てが乏しいため、EU居住者が直面するディープフェイク脅威の多くは検出側の防御に頼らざるを得ない状況にある。

企業セキュリティチームにとっての最大のポイントは、「第50条の遵守を一回限りのラベル付けプロジェクトとして扱ってはならない」という点である。組織は電子透かしやコンテンツ由来(C2PA等)の技術スタックを、バイパス手法が常に存在する他のセキュリティコントロールと同等に扱い、定期的再評価、公開脆弱性情報の監視、および現在の実装が合理的な技術的努力を反映している旨のドキュメント化を継続的に行う必要がある。

EU AI法 第50条の透明性義務で求められる対応策とは?

【即時対応策】

・AIシステムの一元棚卸し(インベントリ):
-組織内のあらゆる顧客向け・社内向けAIシステムを、第50条の4分類(対話型、合成コンテンツ生成、感情認識/生体分類、ディープフェイク/公共関心テキスト)に照らして再点検する。
・開示と機械読取機構の確認:
-該当するシステムにおいて、遅くとも最初のユーザーインタラクションまでに明確でアクセス可能な開示が表示されているか確認する。
-EUユーザーに届く合成コンテンツに対し、単にプラットフォーム上で利用可能というだけでなく、機械読取可能なマーキング機構(メタデータ、ウォーターマーク、C2PAコンテンツクレデンシャル等)が実際に有効化され、テストされていることを検証する。

【短期的な緩和策】

・欧州委員会の標準アイコンとプレーンテキスト表示の採用:
-行動規範(Code of Practice)の署名企業が視認性やアクセシビリティの基準に合意しているため、標準アイコンおよび分かりやすいテキストラベルを導入することで、規制当局からの実務的ベンチマークを満たしやすくなる。
・「技術的実現可能性」に関する技術選定記録の作成:
-採用したウォーターマーク技術の選定理由や限界を文書化し、単なる形式的なチェックボックスではなく「技術的に実現可能な限りの合理的な努力」を行った証拠を残す。立証責任は企業側にある。
・米国の類似法規制とのインフラ統合
-米国の「TAKE IT DOWN Act」(関連情報:FTC Begins Enforcing the TAKE IT DOWN Act(https://www.ftc.gov/news-events/news/press-releases/2026/05/ftc-begins-enforcing-take-it-down-act))等に対応したコンテンツ識別・削除・来歴管理(C2PA等)の技術インフラが存在する場合、欧州専用に別ラインを構築するのではなく、統合的に拡張して運用効率を高める。

【戦略的検討事項】

・電子透かし技術を「動的なコントロール」として運用:
-ウォーターマーク技術を、一度導入すれば永久に法的要件を満たす静的な機能としてではなく、脅威監視が必要な「動的セキュリティコントロール」として位置付ける。
・ガバナンスフレームワークとの統合(CSA AICM v1.1の活用):
-CSAが提供する「AI Controls Matrix (AICM) v1.1」の透明性・AIアプリケーションセキュリティ管理策に第50条の遵守エビデンス(開示テキスト、マーキング実装記録、技術選定ログ)をマッピングし、監査可能なガバナンス構造を構築する(関連情報:AI Controls Matrix v1.1: Strengthening the Foundation for Trustworthy AI(https://cloudsecurityalliance.org/blog/2026/07/14/ai-controls-matrix-v1-1-strengthening-the-foundation-for-trustworthy-ai))。
・EU AIオフィスの動向監視:
-欧州AIオフィスが策定を進める「検出およびラベル付け基準に関する行動規範(Code of Practice)」の動向を追跡し、「技術的に実現可能」とされる範囲の変化に適時対応する(関連情報:Code of Practice on Transparency of AI-generated Content(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/policies/code-practice-ai-generated-content))。

最後に、「CSAのリソースとの整合性」では、本レポート「EU AI法 第50条「透明性義務」の施行と運用・セキュリティへの影響」とクラウドセキュリティアライアンス(CSA)が提供する各種フレームワークとの相互補完関係について、以下のように説明している。

・デジタルオムニバス分析との連携:
-CSAの過去の研究(デジタルオムニバス再調整に関する分析)は、本レポートの基礎となっており、Annex IIIのハイリスクAI適用開始が2027年12月に延期された一方で、第50条の透明性義務、汎用AI(GPAI)規定、および第5条の禁止行為規制は当初のスケジュール(2026年8月)通り適用されることを明確に指摘していた(関連情報:EU AI Act Digital Omnibus: Enterprise Risk Recalibration(https://labs.cloudsecurityalliance.org/research/csa-research-note-eu-ai-act-digital-omnibus-20260609-csa-sty/))。
・4ヶ月の準備猶予期間(Grace Period)の精度
-デジタルオムニバスがウォーターマーク技術の実装に対してのみ与えた「2026年12月2日までの4ヶ月間の猶予期間」を正しく理解し、対話型システムやデプロイヤー(運用者)側の開示義務自体は2026年8月2日から即時適用されている点に注意する必要がある。
・AICM v1.1によるエビデンス管理
-CSAの「AI Controls Matrix (AICM) v1.1」を活用して、第50条に関する開示文書、技術実装ログ、および意思決定履歴を整理・マッピングすることで、単なる単発の法規制チェックリストにとどまらない、持続可能かつ監査に耐えうるAIガバナンス体制を確立することができる(関連情報:AI Controls Matrix v1.1: Strengthening the Foundation for Trustworthy AI(https://cloudsecurityalliance.org/blog/2026/07/14/ai-controls-matrix-v1-1-strengthening-the-foundation-for-trustworthy-ai))。

なお、欧州委員会のAIオフィスが策定した「生成AIコンテンツの透明性に関する行動規範(関連情報:Code of Practice on Transparency of AI-generated Content(https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/policies/code-practice-ai-generated-content))」には、2026年8月2日の第50条施行に先立ち、約190の企業・組織が署名を行っている。

この行動規範は、EU AI法第50条の「合成コンテンツの機械読取可能なマーキング(第50条2項)」および「ディープフェイク等のラベル表示(第50条4項)」の実務的な遵守手順を具体化することを目的とする自主規制フレームワークである。任意参加の仕組みであるが、署名して規範を遵守することにより、各国の市場監視当局に対して「第50条を正しく遵守している」という法的予見性(合規の立証)を得やすくなるメリットがある。署名企業は「署名者タスクフォース(Signatory Taskforces)」に参加し、業界内でのマーキング・ラベル表示の共有や技術運用を進めることになる。

他方、署名を行わない企業であっても第50条の法律上の義務(2026年8月2日発効)自体から免除されるわけではなく、個別に適合性を当局へ証明する必要がある。

CSAジャパン関西支部メンバー
DevSecOps/サーバーレスWGリーダー
笹原英司

ゼロトラスト実装の5ステップ(NSTACモデル)入門(全6回シリーズ)まとめ

シリーズで投稿しました「ゼロトラスト実装の5ステップ(NSTACモデル)入門」、全6回が揃いましたのでここにまとめてリンクを貼ります。

以上

ゼロトラスト実装の5ステップ(NSTACモデル)入門 ~ 第5回:ステップ5 — 監視と保守

2026年9月4日
ゼロトラストWGリーダー 諸角昌宏

この回のねらい

第1回で守る対象(プロテクトサーフェス)を定義し、第2回で流れを可視化し、第3回でアーキテクチャを構築し、第4回でポリシーを作った。これで一通りの実装は終わる。では、なぜまだステップ5「監視と保守」があるのか。答えは、ゼロトラストは「作って終わり」ではないからである。

図1:ゼロトラスト導入の5ステップ。ステップ5は、変化を検知したらステップ1へ戻る「反復」の入口でもある

ステップ5には2つの部分がある。監視(モニター):防御が正しく働いているか、異常が起きていないかを継続的に確かめることと、保守(メンテナンス):ポリシーや設定を、変化する環境に合わせて健全に保つことである。以下、順に見ていく。

よくある誤解:ステップ5から始めてはいけない

ステップ5はとかく忘れられがちだが、逆にステップ5から始めてしまう組織も多い。「とにかくログを全部集めて、何か悪いことが起きていないか探す」というやり方、いわゆるMDR的なアプローチである。だが、ログをすべてSIEMやデータレイクに放り込んで、そこから何かを見つけようとするのは骨が折れるうえ、それ自体は“防御”ではない

MDRは検知と対応(Detection & Response)であって、防御・予防(Prevention)がない。したがって常に後手に回ることが多い。つまり、「侵害されて、どこで何が起きたかは分かったが、すでに侵害されてしまっている」という事態になりやすい。ゼロトラストが目指すのは、侵害はいずれ起きるという前提に立ちながらも、それが実際の被害に広がる前に、できるだけ手前で食い止めることである。まずステップ1〜4で防御を築き、そのうえでステップ5の監視で「まだ健全か、対応が要るか」を確かめる。この順序が肝心である。

監視(モニター)

ゼロトラストの原則の一つに、「すべてのトラフィックを検査し、記録せよ(inspect and log all traffic)」がある。監視が要であることを示す言葉である。プロテクトサーフェスを小さく切り分けたことで、一つひとつについて「いま何が起きているか」という多くの情報(ログ)が得られる。配置したコントロール(ファイアウォールやEDRなど)が、その動作結果を、こちらに知らせてくれるようになる。

ログとイベントは違う

まず、ログイベントを区別したい。監視で主役になるのはイベントである。

ログイベント
中身見えたことの記録そのものセキュリティ機器が「意味のある出来事」を検知したもの
IP AがIP Bにアクセス/プロセスが起動/ボタン押下ブルートフォース検知、マルウェア検知、普段と違う国からのログイン、大量アップロード
扱い調査(根本原因の追跡)に使う。全部を長期保存はしない監視の主役。1件ずつ検査する。より長く保持できる

表1:ログとイベントの違い(Threat Talksを基に作成)(注:本ブログで参照しているThreat Talksは、Threat Talks(ON2IT × AMS-IX)の解説動画である)

なお、ここでいう「イベント」は、セキュリティ機器がフィルタして「意味がある」と判定したものを指す(無害な状態変化のログは含まない)。一般的な情報セキュリティの用語では、サービスの起動・停止や設定変更といった無害な状態変化も含めて「イベント」と呼ぶ、より広い使い方をすることが多い。本稿では、そのうち監視の対象として意味を持つものに絞って「イベント」と呼んでいる。

トラフィックのログをすべて7年間も保存する必要はない(保存コストばかりかさむ)。一方、セキュリティ機器が検知したイベントは、1件ずつ確かめる価値がある。ログは、イベントが起きたときに根本原因をたどるための材料として効いてくる。

プロテクトサーフェスの「文脈」を足す

ここでステップ1が効いてくる。ファイアウォールのイベントは、そのままではIPアドレスしか教えてくれない。だが、そのIPが「どのプロテクトサーフェスか」に翻訳できれば、第1回で記録したメタデータ(所有者・重要度・扱うデータ)が結びつき、「Active DirectoryからCRMへのアクセス」といった業務の文脈が見えてくる。

同じイベントでも、文脈が違えば対応が変わる。たとえば「ブルートフォース攻撃をブロックした」という同じイベントでも、インターネットから顧客向けWebへの攻撃ならよくあることでブロック済みなら無視してよいと考えられる。しかし、もしそれが社内のActive Directoryから発生していたら、たとえブロックされていても調査すべきである。すでに誰かが侵入して横移動を試みているのかもしれない(あるいは、サービスアカウントのパスワード期限切れによる誤検知かもしれない)。いずれにせよ、起きてはならないことなので確かめる必要がある。

IoG/IoC/Unknown で振り分ける

では、大量のイベントをどうさばくか。有効なのは、イベントを3つに振り分ける考え方である。文脈を足すことで、この振り分けができる。

図2:イベントに文脈を足して、IoG/IoC/Unknown に振り分ける(Threat Talks「監視」回を基に作成)

  • IoG(Indicator of Good/良い兆候):防御が正しく働いた合図(例:インターネットからの攻撃をブロック)。記録して次へ行く。
  • IoC(Indicator of Compromise/侵害の兆候):明らかに不正(例:重要なプロテクトサーフェスでEDRがマルウェアを検知)。即対応する。
  • Unknown(不明):断定できないもの(例:ADからWebメールへのブルートフォース)。SOCエンジニアが調査する。

多くのツールは、機器が出す「中身(コンテンツ)」だけを見るため、良い判断が難しい。ゼロトラストは、ここにステップ1の文脈を足せる点が強い。おすすめしたいのは、「ログを全部ためて、その中から怪しいものを拾う」のではなく、機器が出すイベントを1件ずつ、順に検査していくという発想である。コントロールはそれぞれ意味があって置かれているものなので、本来は良いイベントを上げてきてくれるはずである。もし何も上がってこないようなら、ツールの選び方や設定を見直すサインかもしれない。イベントの数は膨大になるため自動化が前提になるが、その自動化を支えるのが、いま述べた文脈「そのイベントがどのプロテクトサーフェスのものか(所有者・重要度・扱うデータ)」という背景情報である。同じイベントでも、文脈があれば振り分けやすくなるが、なければ判断がつきにくい。AIも助けにはなるが、この文脈を与えて初めて、より的確に働いてくれると思われる。

対応の自動化(Rules of Engagement)とキルスイッチ

振り分けの先には、対応の自動化(Rules of Engagement)がある。プロテクトサーフェスの重要度に応じて、どこまで自動で対応するかを決めておく。たとえば、ERPのような重要なプロテクトサーフェスで、EDRがランサムウェアだと判定したプログラムが動き出したら、そのプロテクトサーフェスをネットワークから隔離(キルスイッチ)して影響範囲(ブラスト半径)を抑える。

この隔離は、完全に自動化することも、人が承認する形にすることもできる。確度の高い脅威(明らかなIoC)で、かつランサムウェアのように広がる速度が速いものは、人の判断を待つ時間自体が被害を広げてしまうため、全自動で即座に遮断する運用が現実的である。一方、誤検知の影響が大きい場面などでは、自動化が「これを実行してよいか」という提案だけを整え、SOCが承認ボタンを押して実行する中間形(半自動)も取れる。どちらか一方に決める必要はなく、全自動が不安なら、まず承認を挟む形から始め、信頼度が上がったら段階的に自動化を広げる、という進め方もできる。ただし承認を待つ間にもランサムウェアは広がるため、承認フローを選ぶ場合でも、できるだけ素早く判断できる体制にしておく必要がある。

そして基本姿勢は防御優先(prevention first)である。IPS等は検知モードではなくブロックモードで使う。最良の対応ルールは「防いでブロックする」ことであり、最悪は「侵害されてから原因を探す」ことである。ブロックできたら、その結果をイベントとして受け取り、検査する。

キルスイッチは「セグメンテーションの通信簿」

あるプロテクトサーフェスを丸ごと遮断しようとすると、実はネットワークが十分に分離されておらず、「遮断したらネットワークの半分が止まる」と判明することがある。この予期しない巻き添えの大きさ(ブラスト半径の大きさ)は、次の2つのどちらか、あるいは両方が不十分だったことを教えてくれる。

  • ステップ1:守る対象を、他と混ざらない形で明確に切り分けて定義できていたか(プロテクトサーフェスの境界があいまいなままだと、1つを止めるつもりが他まで巻き込んでしまう)
  • ステップ3:その分離を、設計どおりマイクロセグメンテーションとして実装できていたか(設計は分離のつもりでも、実装が甘いと同じセグメントに相乗りしたままになる)

つまり、「これを止めたら他も止まる」と分かった瞬間は、分けたつもりで実は分かれていなかったことの証拠であり、実地で見落としを発見できる機会でもある。だからキルスイッチの検討は、なぜプロテクトサーフェスをきちんと分けるべきかを組織に示す良い材料にもなる。

保守(メンテナンス)

監視と並ぶもう一つの柱が保守である。作った防御は、放っておくと質が下がっていく。それに抗う仕組みが保守である。主な観点は次のとおりである。

ポリシーの検証

ここでいうポリシーは、いわゆる情報セキュリティ方針のたぐいのものではなく、実際に機器で動いている運用ポリシー、つまりファイアウォールのアクセス規則、EDRの設定などである。とくにファイアウォールでは、新しいアクセスは足されるが、不要になったアクセスは消えずに残りがちである。サーバーを撤去しても何も壊れないので誰も申告せず、「壊すのが怖い」ため規則は何年も放置される。今はネットワークセキュリティポリシー管理(NSPM)ツール(Tufin、AlgoSec、FireMon など)や、ファイアウォール自体に組み込まれた分析機能(例:Palo Alto NetworksのPanoramaが持つセキュリティポリシーオプティマイザ)を使えば、使われていない・重複した規則を検出できるので、変更のたび(少なくとも定期的)に、ポリシーが今も正しいかを点検する。ログが無効になっていないか、EDRでディスク全体をスキャン除外していないか、消し忘れの一時規則がないか、構成管理に近い実際に動いている設定の点検である。

ベンダー更新と“眠っている新機能”

ファイアウォール等は、クラウド経由で自動更新される。シグネチャだけでなく、新機能が配信されることもある。典型的なのは、新しいURLカテゴリ(例:登録されたばかりのドメイン)の追加である。ところがベンダーは、更新で通信を突然止めて障害を出さないよう、新機能を既定で「許可(=素通り)」にして配信することが多い。そのため多くの人が新機能に気づかず、有効化しないまま眠らせてしまう。すでに料金を払っている機能なので、更新のたびに点検し、そのプロテクトサーフェスに使えるものは有効化する。機器を新調したときも、古い設定をそのままコピーせず、新機能を評価し直すことが必要である。

トランザクションフローと実態の突き合わせ

第2回で「どのプロテクトサーフェス同士が通信してよいか」を(業務オーナーの合意のもとで)定義した。運用フェーズでは、定義したフローと、実際に観測されるフローを突き合わせる。定義したのに見えないフローがあれば、ステップ2の誤りか設定ミスを疑う。逆に、定義していないのに流れているフローがあれば、なぜかを調べる。つまり、正当なものか、それとも横移動の兆候かである。ステップ2〜4を正しくやれていれば、本来ここはきれいに一致するはずで、ずれはこれまでの仕事を検算する良い機会になる。

挙動分析(ベースライン)

ここで、監視の節との関係を整理しておきたい。両者は矛盾しているように見えて、実は役割が異なる、補完し合う仕組みである。

  • イベント検査(監視の節):機器が、その場・その1件について「これは意味がある」と判定したものを、その都度チェックする(リアルタイム・1件単位)。ここで人間(SOCエンジニア)が見るのは、あくまで機器が意味づけ・絞り込んだ結果である。
  • 挙動分析:時間をかけて蓄積したログ全体を、機械学習が処理し、統計的な「通常の姿(ベースライン)」を学習して、そこからの逸脱を見つける(蓄積・傾向単位)。ログ全体に目を通すのは機械学習であって、人間ではない。人間が見るのは、やはりベースラインから外れたという判定結果(アラート)だけである。

つまり、「全部のログを人間が精査する」というやり方には、どちらの仕組みでも戻らない。同じログという材料を、機器が1件ずつその場で判定する(イベント検査)か、機械学習が蓄積してから傾向として判定する(挙動分析)かの違いであり、いずれも人間が最終的に目にするのは、絞り込まれた結果だけである。

挙動分析が拾えるのは、単発のイベント検査では見えない、じわじわとした変化や、複数の小さな兆候の積み重ねである。やり方は、ログをXDR(あるいは次世代SIEM・SIEM 2.0とも呼ばれる仕組み)に集約し、機械学習にかける。すると「自分たちの環境では、ふだんこういう挙動が普通だ」という平常時の姿(ベースライン)を学習できる。そのうえで、ベースラインと大きくかけ離れた挙動、つまり普段と違う量・普段と違う相手・普段と違う時間帯のトラフィックなどが現れたら、アラートを上げる。

ただし、誤検知(false positive)が多くなりやすいという弱点も認識しておきたい。たとえば小売業なら、繁忙期(セール・年末商戦など)に通信量が跳ね上がるのは正常な変化だが、対策をしていなければベースラインから外れた「異常」として大量にアラートが出てしまう。同様に、システムの一部がフェイルオーバー(切り替え)しただけでも、普段と違うトラフィックパターンとして検知され、誤検知につながりやすい。

こうした誤検知を抑えるには、季節性やイベントごとの例外をあらかじめ調整しておく必要があり、ある程度の運用の作り込みが求められる。そのため挙動分析は、監視・保守の他の要素(イベントの振り分け、ポリシー検証、フロー突合)が一通り運用に乗ってから取り組む、成熟度の高い最後の一手として位置づけるのが現実的であると考える。

アーキテクチャの変化は「ステップ1へ戻る」合図

クラウド移行、VMからコンテナへ、オンプレのKubernetesからクラウドへ、サービスメッシュのサイドカー廃止など、こうしたアーキテクチャの変化は、可視性を変えてしまう。たとえばサイドカーがあれば見えていた通信が、廃止で見えなくなる。ネットワーク的には分離しているつもりでも、すべてが一つのプラットフォームに集約されれば、もはや分離ではなくなる。

怖いのは、クラウドチームが移行を進め、ネットワークチームが気づかないうちに「見えなくなる」ことである。監視で「これまで見えていた2つのプロテクトサーフェス間の通信が、急に見えなくなった」と気づいたら、それは大きな合図である。こうした変化を検知したら、ステップ1に戻ってやり直す。5ステップは反復であり、ステップ5は次の反復の引き金である。ただし大枠はできているので、多くの場合は所有者や一部のコントロールなど、変わるのはわずかな部分だけである。だからこそ、ゼロトラストの考え方をCISOの上まで含め、組織のあらゆる層に根づかせ、開発者が「クラウドネイティブな機能を使うと、セキュリティに影響するかもしれない」と気づける状態にしておくことが大切になる。

まとめ — そして、また1へ

最終回では、作った防御を健全に保つステップ5を扱った。要点は次のとおりである。

  • ステップ5から始めない。まずステップ1〜4で防御を築く(MDRだけでは常に後手)
  • 監視はイベントが主役。1件ずつ検査し、プロテクトサーフェスの文脈でIoG/IoC/Unknownに振り分ける(自動化+文脈)
  • 対応は自動化(Rules of Engagement)と防御優先。重要なPSはキルスイッチで隔離し、ブラスト半径を抑える
  • 保守で質を保つ:ポリシー検証・眠った新機能の有効化・フローと実態の突き合わせ・挙動分析
  • 大きな変化はステップ1へ戻る合図。5ステップは回り続ける

そして、ここまでの5ステップを、最初から全システムに広げる必要はない。第1回で示した「練習台から本命へ」がここでも効いてくる。まずは重要度の低い1つのプロテクトサーフェスで、定義・可視化・構築・ポリシー・監視保守という一連の流れを小さく回してみる。そこで運用を成熟させ、勘所をつかんでから、優先度の高いシステムへと広げていく。小さく始めて、回しながら育てるのが、5ステップを無理なく定着させる進め方である。

プロテクトサーフェスを定義し(1)、流れを可視化し(2)、アーキテクチャを構築し(3)、ポリシーを作り(4)、監視と保守で守り続ける(5)。そして、環境が変われば、また1に戻る。ゼロトラストは、一度きりのプロジェクトではなく、回し続ける取り組みである。この5ステップという実践的な地図があれば、その歩みを、着実に、そして繰り返し進めていける。全5回(+第1.5回)にわたる本シリーズを、実装の一助としていただければ幸いである。

以上

ゼロトラスト実装の5ステップ(NSTACモデル)入門 ~ 第4回:ステップ4 ゼロトラストポリシーの作成

2026年9月1日
ゼロトラストWGリーダー 諸角昌宏

この回のねらい

第1回で守る対象(プロテクトサーフェス=DAAS)を定義し、第2回でその周りのトランザクションフローを可視化し、第3回でPEP(ポリシー実施ポイント)を配置したアーキテクチャを設計した。配置したPEPは、まだ「何を通し、何を止めるか」というルールを持っていない。そのルールであるゼロトラストポリシーを作るのが、本編のステップ4である。

図1:ゼロトラスト導入の5ステップと、本稿が扱うステップ4(CSA文書の5段階プロセスを基に作成)

ステップ4のねらいは、ゼロトラストをアプリケーション層(L7)のポリシー文として具体化することである。第3回のPEPに、このプロテクトサーフェスへ「誰が・何に・どんな条件でアクセスできるか」を、細かい粒度で書き下ろしていく。

ゼロトラストポリシーとは

ゼロトラストポリシーは、セキュアなアーキテクチャの要石(cornerstone)である。ポイントは3つある。1つめは、プロテクトサーフェスにできるだけ近い場所(PEP)で適用すること。2つめは、最小特権・デフォルト拒否で、必要なアクセスだけを明示的に許可し、それ以外はすべて拒否する。3つめは、ポリシーは最初は静的でも、ZTAの成熟に合わせて動的に進化させることである。

また、ゼロトラストポリシーはアプリケーション層(OSI L7)で書く。IPアドレスやポート(L3/L4)だけでなく、「どのアプリの・どの操作を・どのアイデンティティに許すか」というアプリケーションの文脈で表現する点が、従来のファイアウォールルールとの違いである。

もう一つ大切なのが、ポリシーはまずビジネスの視点から出発し、それを技術的なルールに翻訳するという二段構えである点である。たとえば「営業担当は、勤務時間内なら自宅からでもCRMにアクセスしてよい」というのはビジネス上の方針(業務要件)である。これを、ファイアウォールやIdPが実際に強制できる形、つまりユーザーグループ、時間帯、場所の条件に落とし込む。翻訳のしやすさは使うツールに依存する。新しめのファイアウォールならユーザーグループのまま書けるが、古いものではIPアドレスに変換する必要があり、手間が増える。ビジネス要件の定義は業務オーナーが担い、技術ポリシーへの実装は、プロテクトサーフェスがきちんと定義されていれば、セキュリティ担当やSOCが引き受けられる。

プロテクトサーフェス、トランザクションフロー、ポリシーの関係

ポリシーを書く前に、これまでのステップとの関係を押さえておく。この3つは、次のような連鎖でつながっている。

図2:プロテクトサーフェス、トランザクションフロー、 ポリシー

  • プロテクトサーフェス=ポリシーの「主語」:ポリシーは「このプロテクトサーフェスへ、誰が・何にアクセスできるか」を定める。守る対象(ステップ1)が決まって初めて、ポリシーの主語が決まる。
  • トランザクションフロー=ポリシーの「材料・下書き」:ステップ2で可視化した「実際にどんなアクセスが・どの経路で流れているか」が、そのままポリシーの下書きになる。フローにある流れは許可の候補、フローにない流れは原則拒否する。
  • ポリシー=許すものを明示:フローのうち、業務上正当なものだけをキプリングメソッドで許可として書き下ろし、それ以外はデフォルト拒否とする。

一言でいえば、守る対象(プロテクトサーフェス)への、実際の使われ方(トランザクションフロー)を、ポリシーとして書き下ろす、という関係である。だから、ステップ2のフローのマッピングが甘いと、ステップ4のポリシーも甘くなる。必要なアクセスを漏らして業務を止めるか、余計なアクセスを許してしまう。フローの精度が、そのままポリシーの精度になる。

ここで、ポリシーをめぐる3つの役割を、時間軸で分けて押さえておきたい。ここは混同しやすいところである。

  • 定義する(事前・人間):業務オーナーとセキュリティ担当が、キプリングメソッドでポリシーを作る(ステップ4)。作ったポリシーはPDPに登録しておく。
  • 判断する(実行時・PDP):アクセス要求のたびに、PDPが、その登録済みポリシーに、データソースから得た“今の状況”(本人性・端末状態・リスク等)を照らして、許可/拒否を判断する。
  • 強制する(実行時・PEP):経路上に配置したPEP(ステップ3)が、PDPの判断結果を実行する。

つまり、第3回で「PDPは様々なデータソースから情報を得る」と述べたのは、PDPがポリシーを作っているのではなく、人間が作った登録済みポリシーを評価するために、その場の状況を集めている、という意味である。ポリシーを作るのは人間(ステップ4)、それを状況に照らして判断するのがPDP、判断を強制するのがPEP。この切り分けを押さえると、「PEPがPDPの判断に従って実行する」と「PDPは様々なソースから情報を得る」が、どちらも実行時の同じ動きを指していることが分かる。

キプリングメソッド — 5W1Hでポリシーを書く

では、ポリシー文はどう書くのか。ここで用いるのがキプリングメソッドである。作家ラドヤード・キプリングの「6人の召使い(Who・What・When・Where・Why・How)」になぞらえた方法で、この6つの問いに答えることで、プロテクトサーフェスへのアクセスを許すべきエンティティを、細かい粒度で定義できる。

図3:キプリングメソッド(5W1H)でゼロトラストポリシー文を組み立てる(CSAのゼロトラスト関連ガイダンスを基に作成)

問い何を決めるか属性の例
Who(誰が)どのエンティティにアクセスを許すか(人・非人間の両方)役割、ユーザー、サービスアカウント、ボット
What(何に)何にアクセスするか/どんな文脈(コンテキスト)でアクセスするか対象リソース、操作、機微度
When(いつ)アクセスを許可する時間帯・条件営業時間、期間、頻度
Where(どこから)許可する場所・ネットワーク・地理的範囲社内/VPN、国・拠点、既知の端末
Why(なぜ)そのエンティティがアクセスする正当な理由(業務上の根拠)業務プロセス、職務上の必要性
How(どうやって)5W を満たすための技術的統制MFA、mTLS、暗号化、最小特権

表1:キプリングメソッドの6つの問い

重要なのは、Whoに人だけでなく非人間(サービス・アプリ・ボット)も含めることである。ゼロトラストでは、ワークロード同士の通信も検証の対象になるため、「決済アプリが会員データにアクセスする」といった非人間のアクセスも、同じ6つの問いで定義する。CSA文書では、これに「どれだけの時間(for how long)」を加えて、アクセスの有効期間まで定めることを勧めている。

具体例:クレジットカードのポリシー文

ここで、ポリシーとPEPの関係を正しく押さえておく。ポリシーは「PEPに対して」ではなく、「プロテクトサーフェスへの各アクセスに対して」作る。そのうえで、判断はPDP(ポリシーエンジン)が行い、経路上のPEPが適用・強制する。つまり流れは「プロテクトサーフェスに対してポリシーを作る → PDPが評価する → PEPが実行する」である。

まず、クレジットカードのプロテクトサーフェスへのアクセスを、キプリングメソッドで2つ書き下ろす。人(引受担当者)と非人間(決済アプリ)の両方を示す。

問い例1:引受担当者 → 引受審査アプリ(人)例2:決済アプリ → カード会員データ(非人間)
Who役割=引受担当者サービスアカウント=決済アプリのワークロード
What引受審査アプリで与信判定を行うカード会員データの該当レコードを読む
When営業時間内取引処理中(都度)
Where社内/VPN・管理端末想定された内部経路(同一PS内)
Why与信審査という業務上の必要決済処理に必要な参照
HowMFA+準拠端末、セッション短時間・再評価mTLS+最小権限(該当レコードのみ)

表2:キプリングメソッドによるポリシー文の例(クレジットカードのプロテクトサーフェス)

例1は「引受担当者が、社内の管理端末から、営業時間内に、与信審査のために、MFA付きで引受審査アプリを使う」という一文に相当する。例2は「決済アプリのワークロードが、取引処理中に、mTLSで、カード会員データの該当レコードだけを読む」という一文である。この条件を満たさないアクセスは、すべて拒否される。

同じ要領で、外部SaaSを使う人(営業担当)と、非人間(ATM)の例も書ける。

問い例3:営業担当 → CRM(人・外部SaaS)例4:ATM → 決済取引(非人間)
Who役割=営業担当登録済みATM(証明書で識別)
What顧客訪問の記録をCRMに登録する現金引き出しの決済取引を実行する
When営業時間内営業時間内
Where自宅可(外出先)だが会社支給端末・SASE経由登録拠点のATM網からのみ
Why訪問記録という業務上の必要利用者の引き出し要求に応じる
HowSASE経由+MFA、CRM側は自社経由のみ許可クライアント証明書+EMV認証、限度内に制限

表3:キプリングメソッドによるポリシー文の例(つづき)

例3の営業担当は、外出先の自宅からでもCRMに記録できるが、会社支給端末でSASE経由に限る。CRM(SaaS)側は自社経由のアクセスだけを通す。例4のATMは、登録拠点・クライアント証明書・EMV認証・限度額という条件で、決済取引だけを許す。人か非人間か、内部か外部SaaSかで、5W1Hの埋め方が変わるのが分かる。

これらのポリシーが、第3回で配置したどのPEPで実行されるかを対応づけると、次のようになる。プロテクトサーフェスへの各アクセス(フロー)に対してポリシーを定義し、その経路上のPEPが適用・強制する、という関係が見て取れる。

プロテクトサーフェスへのアクセス(フロー)ポリシーの要点(許可する条件・それ以外は拒否)適用・強制するPEP
顧客/営業担当 → カードWebアプリ(入口)顧客=MFA+既知デバイス/営業担当=SASE経由・会社支給端末・営業時間内入口のPEP
カードWebアプリ → 引受審査(内部)引受担当者=社内/VPN+管理端末+MFA、営業時間内、与信判定のみアプリ手前のPEP
アプリ → カード会員データ(最重要データの手前)決済アプリのサービスアカウント=mTLS+該当レコードのみ。人間の直接アクセスは拒否データ手前のPEP
引受審査 → 信用調査機関(外部接続)与信照会のトランザクションのみ(想定プロトコル・宛先)外部接続のPEP
ATM → 決済取引(非人間の入口)登録済みATM+クライアント証明書+EMV認証、限度額内ATM経路のPEP

表4:プロテクトサーフェスへの各アクセスに対するポリシーと、それを実行するPEP

たとえば「アプリ → カード会員データ」のフローには、決済アプリのサービスアカウントがmTLSで該当レコードだけを読むというポリシーを定義し、データ手前のPEPがそれを強制する。人間が直接クエリしようとしても、このPEPで拒否される。ポリシーはあくまでプロテクトサーフェス(守る対象)を主語に作り、PEPはその実行場所である、という点がここでも確認できる。

1回のアクセスがどう実行されるか — 人と非人間で追う

「配置したPEPが、PDPの判断に従ってポリシーを実行する」を、実際の1回のアクセスで具体的に追ってみる。人(引受担当者)と非人間(決済アプリ)の2本を並べると、判断材料(データソース)が違っても、流れは同じであることが分かる。

図4:1回のアクセスが実行される流れ(人・非人間の2例)

【人】引受担当者が引受審査アプリにアクセスする1回:

  • ① 要求:引受担当者の要求が、アプリ手前のPEPに届く。
  • ②③ 照会・評価:PEPは自分で判断せず、PDPに照会。PDPはデータソースで本人性(IdP/MFA通過)、端末状態(管理端末か)、時間(営業時間内か)を確認する。
  • ④⑤ 判定:ポリシー『引受担当者=社内/VPN+管理端末+MFA、与信判定のみ』に照らして許可と判定し、PEPに返す。
  • ⑥ 強制:PEPが許可を強制し、与信判定の操作だけを通す。

【非人間】決済アプリがカード会員データを読む1回:

  • ① 要求:決済アプリのサービスアカウント(SA)が、該当レコードの読取りを要求する。
  • ②③ 照会・評価:PEPがPDPに照会。PDPはSAの正当性とmTLS証明書の有効性、要求元が想定ワークロードかを確認する(ここでの判断材料は、人の場合のMFA・端末状態ではなく、証明書・ワークロードの正当性)。
  • ④⑤⑥ 判定・強制:ポリシー『決済アプリのSA=mTLS+該当レコードのみ』に照らして許可し、PEPが該当レコードだけを通す。

もし人間が同じカード会員データに直接クエリしようとすると、②〜⑤で条件(SA・mTLS・想定経路)を満たさないため、⑥のPEPで拒否される。同じデータでも、正規のワークロード経由なら通し、それ以外は止まる。これが「ポリシーをPDPが評価し、PEPが実行する」の具体像となる。

ステップ3(CBAC)とのつながり

第3回で見たCBAC(コンテキストベースアクセス制御)と、このステップ4は表裏一体である。キプリングメソッドで書いた5W1Hが、そのままCBACの評価属性になる。Whoは主体の役割、Whereは場所・ネットワーク、Whenは時間、Howは技術的統制。これらをPDPのポリシーエンジンが評価し、PEPが強制する。つまり、ステップ4で「ルールを言葉で定義」し、ステップ3のアーキテクチャで「そのルールを実行」する、という関係になる。

特権アクセス(管理者)のポリシー

ポリシー作成で、とりわけ慎重に扱うべきなのが管理者(特権)アクセスである。管理者は多くのシステムに広くアクセスできるため、攻撃者にとって格好の標的であり、ひとたび乗っ取られると内部を横移動され、影響範囲が一気に広がる。だからこそ、通常ユーザー以上に厳格なポリシーを敷く。CSA文書も特権アクセスの制御を重要な統制として挙げている。ここでも、ステップ1〜4の流れがそのまま効いてくる。

  • 踏み台を独立したプロテクトサーフェスにする(ステップ1):管理作業は、隔離できる踏み台(jump host/bastion)からのみ行う。踏み台自体を1つのプロテクトサーフェスとして定義する。
  • アイデンティティの分離(ステップ2):普段のアカウント(メール・チャット等)と管理用アカウントを完全に分ける。「山田」と「管理者・山田」は別ID・別環境とし、インターネットにつながる普段の端末から管理作業をしない。こうしないと許可すべきフローが増え、横移動が容易になる。
  • 踏み台への到達を最も固く(ステップ3・4):まずネットワークで絞る(社内の限定IP/ユーザーIDからのみ)。ネットワーク到達が無ければ攻撃者は何もできない。認証は、ID・パスワードだけでは弱いため、クライアント証明書+MFAトークンを重ねる。
  • PAM・短命セッション:特権アクセス管理(PAM)で、対象システムへの権限をその都度要求させ、短命の認証情報(短寿命のSSHトークン等)で、必要な間だけ付与する。踏み台から管理対象への接続も同様に絞る。
  • 踏み台の上でできることを絞る:メールもインターネットアクセスも不可。外部へは出させず、内部の必要な資源(ファイル共有、コンテナレジストリ等)だけに限定する。OS更新なども、ダウンロードをスキャン・ハッシュ検証するプロキシ経由で取り込み、時間帯も制限できる。最も避けたいのは、踏み台に遠隔操作ツールを仕込まれることである。
  • できれば映像のみ(KVM):最も厳格にするなら、データ転送を伴わない映像(KVM)アクセスに限る。一般にはRDPで踏み台に入る運用が多い。

狙いは、万一、踏み台が侵害されても攻撃者に何もさせないこと、つまりデータを持ち出せず、指示(マルウェア等)も送り込めない状態にする。そして、踏み台にアクセスする全員を監査する。この監査こそ、次回のステップ5(監視と保守)につながる。なお、いまは管理用アカウントを分ける組織は増えたが、依然としてインターネットにつながる普段の端末から管理作業をしている例が多く、ここは改善の余地が大きい。

インシデントの検知と対応

ステップ4は、アクセスポリシーを定義するだけではない。CSA文書は、ステップ4の活動にインシデント検知・対応メカニズムの構築も含めている。ポリシーに反するアクセスや、正常な動作からの逸脱を検知したら、アラートを上げ、遮断や再認証などの対応につなげる。第2回でマッピングしたトランザクションフローが「正常の基準」となり、そこからの逸脱が検知の手がかりになる。

ファイアウォールだけではない — ポリシーの適用先

「ポリシー」と聞くとファイアウォールのルールを思い浮かべがちだが、ゼロトラストポリシーの適用先はそれだけではない。ステップ3で選んだ各コントロールに、それぞれポリシーを与えて初めて機能する。

  • SaaS/クラウド:クラウドは「誰でも扉を叩ける」のが弱点。SASE(クラウド上のファイアウォール)で通信を自社経由に集約し、SaaS側で「自社を経由した通信だけを許可する」よう設定する。その”自社経由である”ことを伝える手段として、大きめのSaaS(Microsoft 365・Google・Salesforce等)では通信に目印を差し込むヘッダー挿入、小さめのSaaSでは自社の出口IPだけを通すIP許可リストを使う。いずれも入口が自社経由に限定され、インターネットからの直アクセスを排除できるため、アタックサーフェスが大きく下がる。
  • エンドポイント(XDR):コントロールがあっても、ポリシーがなければ何も止めない。たとえばカード会員データを扱うサーバーや引受担当者の端末で、ランサムウェア防御モジュールを有効化し、DBに触れてよいアプリを許可リストで限定する(未知のプロセスがカード会員データに触れたら遮断)。
  • アイデンティティ基盤(IdP):条件付きアクセスで、場所・時間・デバイスまで絞る。たとえば引受担当者のログインは『社内/VPN+管理端末+営業時間内+MFA』でのみ許可し、私物端末や深夜・国外からは追加認証か拒否とする。MFAも“ただ有効”では不十分で、設定を誤ると穴になる。
適用先クレジットカードでの具体例狙い
SaaS/SASE規制報告の提出ポータルや営業のCRMを、SASEで自社経由に集約し、SaaS側は『自社経由のみ許可』外部からの直接アクセスを排除
エンドポイント(XDR)カード会員データを扱うサーバーと引受担当者端末に、ランサム防御を有効化+DBに触れるアプリを許可リスト化端末・サーバー側で不正を遮断
IdP(条件付きアクセス)引受担当者は社内/VPN+管理端末+営業時間+MFAでのみログイン可。私物・深夜・国外は追加認証/拒否ログインの入口を状況で絞る

表5:ポリシーの適用先と、クレジットカードでの具体例

すべてに共通する原則は、具体的であること、そして業務上の正当性があることである。「全員がインターネットへ」のような広すぎるルールは避ける。理由(業務上の必要)がないポリシーは、そもそも作らない。

ポリシーの検証と見直し — 最も見落とされがち

ポリシーは作って終わりではない。むしろ検証(見直し)こそ最も見落とされがちな工程である。新しいアプリを動かすためにルールを足すのは自然に起きるが、アプリが廃止されてもルールは自動では消えないし、誰も困らないので放置され、ポリシーが腐敗(decay)していく。検証では、少なくとも次を確認する。

  • ステップ2と突き合わせる:そのフローは、ステップ2で「このプロテクトサーフェス間の通信は許す」と決めたものか。新たな要望なら、両プロテクトサーフェスの業務オーナー同士が合意して初めて許可する。
  • 具体的で、十分に厳格か:any/any のような広いルールを残さない。L4(ポート)ではなくL7(アプリケーション)で書き、必要ならスキャンや復号まで行う。
  • ツールの機能を使い切る:機器の自動更新で増えた新機能が未使用のまま眠りがち。たとえば新しいURLフィルタのカテゴリが追加されるとき、業務を止めないよう既定で「許可」で入ることが多い。ところがこの「許可」は、通信を通すだけでログも残さない設定になっていることが多く、その結果、該当する通信が起きていても管理者からは見えない(可視性が失われる)。更新のたびに、こうした新機能・カテゴリの設定を点検する。
  • 自動化する:PEPは多いので、変更のたび/毎日、構成を取得して整合を自動チェックするのが理想。難しければ、定期的に人が見直す。

この見直しは、5ステップを一度で終わらせず、繰り返し回していくことの一部でもある。業務オーナーの交代はステップ1、新たな通信要望はステップ2、新しいコントロールの必要はステップ3と、変化に応じて各ステップに戻る。ポリシーが「最初は静的でも、運用しながら動的に育つ」のは、この反復があるからである。まず1つのプロテクトサーフェスで作り込み、成熟させてから次へ広げる、という「練習台から本命へ」の考え方(第1回)も、ここで効いてくる。

ポリシー作成・検証の実務ポイント

  • デフォルト拒否から始め、必要なアクセスだけを明示的に足していく
  • 具体的に(広すぎる any/any を避け、L7・業務の言葉で書く)
  • 人と非人間(ワークロード・API・ボット・デバイス)の両方をWhoに含める
  • 業務上の正当性がないポリシーは作らない/廃止時はルールも消す
  • 自動で構成を点検し、更新で増えた機能・カテゴリの取りこぼしを防ぐ

まとめ

第4回では、配置したPEPにルールを与えるゼロトラストポリシーを作るステップ4を扱った。要点は次のとおりである。

  • ポリシーはアプリケーション層(L7)で、最小特権・デフォルト拒否を原則に、プロテクトサーフェスの近くで適用する
  • 書き方はキプリングメソッド(Who・What・When・Where・Why・How+どれだけの時間)。人だけでなく非人間も対象にする
  • 5W1HはそのままCBACの評価属性になり、ステップ3のアーキテクチャが実行する
  • 適用先はファイアウォールだけでなくSaaS/SASE・エンドポイント・IdPにも及ぶ。管理者アクセスは踏み台・アイデンティティ分離で特に厳格にする
  • 作って終わりにせず検証・見直しを(自動で)繰り返す。廃止時はルールも消し、静的から動的へ育てる
  • ステップ4にはインシデント検知・対応の構築も含まれる

守る対象を定め(1)、流れを可視化し(2)、アーキテクチャを構築し(3)、ポリシーを作った(4)。最終回(第5回)は、ステップ5「監視と保守」を扱う。すべてのトラフィックをアプリケーション層まで検査・記録し、そのテレメトリを使って、プロテクトサーフェスを継続的に強くしていく。ゼロトラストを「作って終わり」にしないための最後のステップである。

以上